ライブ「ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ」記事22012/09/04 18:56

exciteレビにすごい記事出てた。読んでるだけでニヤけてきちゃう。

森山未來ってエヴァンゲリオンみたいだなあ……。
前からうすうす感じていたが、ロック・ミュージカル「ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ」で大暴れする彼を見て、その思いは一層強くなった。
碇シンジじゃないのだ。エヴァンゲリオンなのだ。
ドラマ版EPISODE19「男の戦い」でシンジくんが乗ったエヴァがケモノのように暴走する名場面を実写化するなら(エヴァ、ハリウッドで実写化?とかいう話あった気がするが、進展してるのだろうか)、演者は森山未來しかいない。

「私たちには、もう、EVAを止めることはできないわ……」
リツコさんはそう言う。舞台後半の森山はまさに「私たちには、もう、森山未來を止めることはできないわ……」と思わされた。
衣裳を脱いで全身にある仕掛けを施した姿は鮮烈で、初日は客席にダイブし、客席の三方を取り囲む柵の上によじ上り、平均台を渡るかのようにその上を歩きながら観客を煽る姿は最高にクレージーだった。

森山未來がここまでする「ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ」とは、いったいどういう作品なのか? 
ただひたすらに愛を求める、孤独な主人公の身を切られるような狂おしい思いを描いた、身悶えしちゃうほどいいお話である。

森山演じる主人公ヘドウィグはロックミュージシャン。男から女になる性転換手術に失敗して男性器の部分が1インチだけ残ってしまった(それで、アングリーインチ=怒りの1インチ)男でも女でもあり、男でも女でもない人物。
全身全霊で愛した少年トミーに捨てられ、曲も奪われてトミーのほうがスターになってしまうという悲劇に遭いながらも、自分の半身のような存在を求め続ける。
そんなヘドウィグの半生を、彼のライブで語り歌うという趣向になっている。

幕が開くと、森山はドラッククイーンふうの衣裳に身を包んで登場する。ヒールの高い靴をはき髪も盛りまくりだ。
まず、カラダで笑いをとる森山に観客の心はつかまれ、いつしかヘドウィグのライブに来た客のようになって、舞台上のヘドウィグの身の上話に聞き入り、歌に盛り上がる。

初日は、喧噪のステージの途中でカツラがずれるは、サングラスのレンズが一枚とれるは、森山はボロボロになっていたが、その姿がヘドウィグのボロボロの心の表れのようだった。
森山未來はあらゆる状態を味方につけてしまう、ライブの申し子のような人だ。

こんなふうにライブの楽しみのある舞台。元はオフ・ブロードウェイで初演され、熱狂的な人気を得て世界各国でも上演されたもの….
マドンナやデヴィッド・ボウイにも愛された作品で、映画化もされた。 日本では森山の前に、三上博史と山本耕史がヘドウィグを演じているが、過去2作と比べて森山版は、かなり新しいヘドウィグだった。

森山へドウィグは、上演台本と演出が「モテキ」監督の大根仁、訳詞がスガシカオ、共演者に「ミドリ」のヴォーカル後藤まりこ(今回が初舞台)という、演劇の枠を超えた新鮮な布陣に支えられている。

注目すべきは大根仁が書いた上演台本。
舞台を近未来の日本に置き換えた大胆なものだった。
原作だと、ベルリンの壁が崩壊して、分かれていた東西ドイツが統一されたという歴史的な大事件と、人間はなぜひとりではいられないのか、という紀元前から語られている命題を重ねて描いている。
今回、きっと「モテキ」のファンもたくさん観に来ているだろう。その人たちにとって、ベルリンの壁はピンと来ないかもしれないものなあ。

森山、大根版のヘドウィグは、ある事故により、立ち入り禁止区域として日本の中で隔離されてしまった場所で生まれ育った人物という設定になった。
今の日本の先行き不安で閉塞的な状況なら実感しやすく、よりヘドウィグの心情に入り込みやすくなったともいえる。

物語の重大なテーマは「ひとつになりたい」という思い。
ヘドウィグと運命の恋人・トミーが森山の2役なので、ヘドウィグにとってトミーが「切り離されたもうひとりの自分」のようなかけがいのない存在である、という思いもわかりやすい(この演出は、今回オリジナルではなくスタンダードなもの)。

物語の後半、ヘドウィグとトミーの境界が曖昧になっていくところが森山の真骨頂。エヴァンゲリオンの覚醒である。
この瞬間、神が降りてきたんじゃないかという衝撃が!!

「さて人間の原形がかく両断せられてこのかた、いずれも半身も他の半身にあこがれて、ふたたびこれと一緒になろうとした」
これは、古代ギリシャの哲学者プラトンの著書「饗宴」にある言葉。(岩波文庫 久保勉訳)。
人間が元は男女、男男、女女の、ふたりが繋がっていたが神の力で引き裂かれてしまったため、今でもその分断されたもうひとりの自分を探すのだと、その本には書いてある。
2000年以上前、紀元前の大昔から、「赤い糸」レジェンドを、おっさんが書いていたんですよ。ステキですね。しかもプラトンってBLなんですよ。

ヘドウィグはこの「饗宴」が元にあるお話で、森山未來はこの真理を、たったひとりでカラダで表現してしてみせたのだ….
さすがダンサー。さすが、かつて、虫になってしまった人間を演じた(『変身』)こともある才能だ。

少年よ神話になれ、じゃないが、森山未來よ神話になれ とばかりに、神話に変化した森山の肉体は、さらに客席へ「ひとつになりたい」願望を求めていく。
全身全霊で咆哮する森山ヘドウィグに促されて、観客は右手を上げる。その手は磁石のように舞台へとジリジリと引っぱられていく。
客席にダイブしたり、唄いながら客席のまわりの柵を渡る森山に、観客はひとりふたりと立ち上がっていく。
ライブとはまさに、みんなが「ひとつになる」神話的な儀式である。

そういえば、「モテキ」も「誰かと繋がりたい」話だった。モテない主人公の幸世の心の叫びは切実だった。
森山が主演した映画「苦役列車」(山下敦弘監督)も、原作と違うところは、主人公・貫多が、やっぱり「誰かと繋がりたい」と強く思っていることだ。

ところが、森山未來が演じると、繋がりたいという希求を超越して、どんなことがあっても私は私!という、開き直りにも似た解放感へと向かっていって痛快だ。ドラマ版の「モテキ」や「苦役列車」のクライマックスの主人公の突き抜けた感じを思い出してほしい。
しなやかな筋肉をふるわせ、魂を絞り出すように歌う歌も、男でも女でも男じゃなくても女じゃなくても、ふたりでもひとりでも、あっち側でもこっち側でも、私は私と叫んでいるように聴こえてくる。
古代ギリシャの人間論も関係なく、あらゆることから自由でありたい。どんな境遇でも受け入れて、そのまま突き進みたい。
日本のあの事故を扱うにはもっと配慮を、という声もあるかもしれないが、それでも叫ばざるを得ない、ひとりの男がそこにいる。
ただ生きること。
それが希望なき今の日本への不器用なまでの怒りの表明と祈りだ。

やっぱり森山未來、最強。
こうなったら、舞台エヴァンゲリオン、森山未來主演でやってくれないかな。あ。はてしないエネルギー量でいったら「進撃の巨人」だって演じられそうな妄想にとらわれた。
(木俣冬)

エンタMAX!にも! 稲田浩さんブログにも!